時は幕末、1867年11月15日に大政奉還がなされ明治に移ろうとする夜明け前の3月に和歌山の地で1人の天才が生れ落ちました。
後に「歩く百科事典」と称される程の博識名高い世界的博物学者‘南方 熊楠’です。
博物学者と紹介しましたが彼の足跡を辿れば形容しがたいようなユニークで奇抜な存在であったようです。
ある意味すごく日本人の特性が偏重的なまでに表れ様々な研究に没頭してゆく。
幼き頃より山へ入っては植物採集に明け暮れていたようでその頃のあだ名は「天狗ちゃん」だったそうだ。
大学進学の為上京すると学業よりも動物園、植物園、博物館など興味の対象物が多くそれらに出かけては独学で研究し熱はどんどんエスカレートして自主退学しアメリカへその情熱の矛先を向けることになる。この時南方、十代最後のクリスマス目前の渡米だった。
1887年、単身アメリカで生活を始めて語学をマスターしてミシガン州立農学校に入学する。
まあ怪人も人の子、ウヰスキーなる西洋のお酒に呑まれて泥酔し退学処分になってインディーばりに?顕微鏡と研究道具片手にアメリカ各地を放浪する。
その後キューバに渡り稀有なことにそこで興行していたサーカス団の一員に日本人がおり意気投合して一座に加わりハイチ、ジャマイカ、ベネズエラなどに巡業で廻るような脱線もあったり。
次に南方が目指したのはイギリスで、そこでも研究の合間に書いた初論文「極東の星座」が英を代表する科学雑誌『ネイチャー』に掲載された。そんな流れからあの有名な大英博物館の東洋調査部員として採用される。
その頃中国から亡命していた孫文と知り合い交友を深めることになる。
日本を後にして14年がたった1900年、南方が33歳になった年に渡英した夏目漱石と入れ替わるように日本へ帰国する。
帰国後の熊楠は和歌山への帰郷後、弟の自宅に暫く居候した後、田辺市へ移り住み、菌・苔・藻・シダ類等の隠花植物の資料採集と研究に没頭してゆくこととなる。
孫文が来日中にわざわざ旧交を温めに和歌山の地に訪れたりロンドン大の総長と交流して方丈記の英訳を仕上げたりと活発な活動をしていたようだ。
晩年は神社合祀反対運動にのめり込む事になる。
神社の数の間引く事によって鎮守の森の巨木を金にかえてゆくビジネスがそこには成立していたようで和歌山では3700あった神社が600に合祀、統合される事となった。
これらの事で失われていく太古の森とそこに息づく自然を植物採集等の研究を通してこよなく愛してきた熊楠はこの反対運動の先頭に立っていく。
失われた森や自然は大きいものだったが今では世界遺産に登録されている熊野古道とその自然は彼の反対運動が防波堤になって現在に到っていると言っても過言では無い。
2008年9月25日木曜日
ニッポンの怪人 ― 南方 熊楠
投稿者 神木慧仁 ラベル: シリーズニッポンの・・・, ニッポンの怪人
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