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2008年5月12日月曜日

古い、数少ない友人に暫くぶりに再会した。

土曜に古い友人に会った。
日中、ばたばたと忙しく、天王寺で待ち合わせたのは結局8時過ぎだった。
さて、天王寺で待ち合わせたはいいが・・・さて何処で食事するもんか・・・
肉なしのご飯が食べれるところにしようと、インド料理屋に心当たりがあるようで、そこへ向かう。

暫くぶりと言うのも、彼はヨガの・・・と言っても所謂ハタヨガではなく彼らが実践しているのはカルマヨガだ。その中にハタヨガ的な部分は当然あったりするが根本がやはり違うようだ。・・・?話が反れまくったが日本で師事している先生のお師匠さんがインドにいてるらしく、その流れでインドへ渡航していたのだ。
で、彼が過ごしたアシュラムと言っていいか寺院と言っていいか分からんがその様な所では共通の友人がもう3年だか4年だかを過ごしているらしく再会をはたしたようだ。

お尻ほどあった長い黒髪は綺麗に丸められているらしい。
こういう表現をするとヒッピー的な思考を持った人間が日本の社会に馴染めずドロップアウト的にインドの山奥に引き篭もり自慰行為的な生活を集団でしているという発想になるのが一般的な気がする。
それも一つだ。
勝ち負け論が好きな人が多いようだ。
他者と自分とを比べる性は人として持っているだろうが如何なものか?性ののまま、意識の赴くままに行動を委ねるのが必要な時もありそうだが。

久々という事と特異な環境下での再会という事ですんなりとは当然いかない。距離感がそれぞれある。
時間と共に少しずつ解れていき許される僅かな時間を穏やかなテンポで会話したようだ。

その時の事を話していて彼らのキラキラした曇りの無い眼が印象的で直視出来ない位だった様だ。

お互いおのおのが置かれている状況を受け入れ、いろんな意味でそれほど気負いが無く距離を取れるこの関係性が心地よい。数少ない友人だ。

ちょっとだけインドの友人のことを想うと嬉しくなってきた。元気にしているぞ。
カッコいい友人が僅かながらに周りに存在する。本当にありがたく感じる。
人に物に執着しなくなっても、ふとした瞬間に降りてくるかも知れないコチラの感覚を想像しながら、彼にとっても私が友人であって欲しいと願う私はコチラの人間であって地縁はやっぱり避けれない。

そんな事やらにグルグル脳みそかき混ぜながらお酒も呑まずにややこしい話をしていた気がする夜でした。

3 件のコメント:

  1. 気負いが無く距離を取れる友人がいるのは、いいですね
    意識の赴くままに行動できる人は強い人なのでは?
    私もそういった友人がいるのですが、私はその友人に
    よからぬ愛情を持ってしまい・・悶々と苦しんでいます
    人や物に執着しない方が精神的には楽ですが、
    時々人恋しくなる、でも1人の気楽さも捨てがたい・・

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  2. 善からぬ愛情というのは解釈が難しいですね。
    一般的には倒錯的な愛の方向性の事を指すのかな?
    異性の友人なのかな?同姓なのかな?
    執着しないとは地縁を絶つことであって一般的にはあまり理解しにくいところかも知れません。
    そんな事を口にするとジャッジメントパーソンが怒涛の如く集中砲火を浴びせる事は間違いありません。自身の価値観を根底から揺るがされる捉え方に対する恐れの現われだと多分思いますよ。
    他者を受け入れつつ惑わされず、時には他者を遮断して時にはあたふたと振り回されながら愉しく出来ると良いですね♪

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  3. ジャッジメントパーソン返答参考例:
    上のようなケースの場合

    ●生んでもらった肉親に対する~~以下省略
    ●世の中、物を買って消費して、お金が回ってみんな成り立ってるんであって・・・以下省略。

    2件ともある意味正論で普通な意見。
    以上が人と物への執着に関するジャッジメントパーソンのよくある返答例です。

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