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2007年10月31日水曜日

ニッポンの文化-衆道etc


ニッポンの文化とは言い過ぎか?
仏教伝来より、女犯の規律が厳しい僧侶やその影響を受けた貴族たちを中心に男色の文化が花開いたw
弘法大師空海がその始まりともされるこの風俗。御仏に仕えるというと現在の価値観ではかなり違和感を覚えますが当時はどうだったのでしょうか?

武家(男)社会の中の小姓という存在
主に成人するまでの少年を対象にした少年愛の形態だったようで時代とともに武家社会では小姓と呼ばれる主君に近侍して仕える警護役的な身分のものが主君の男色の相手も成していたようです。

戦国時代には織田信長と前田利家・森蘭丸、武田信玄と高坂昌信、上杉景勝と清野長範などが代表的な衆道の関係で他にも主だった武将には小姓と呼ばれる存在が成立していたようです。

忌みするという言葉の意味するところ?
仏教伝来時は女性という存在を忌みする流れで男色へと向かったが武家社会では動乱の世で長期間の戦で親方の女性と良い事出来ない鬱憤を晴らす意味合いも兼ねて肛門性交が行われていたようだ。
有史以来やっぱり性交は娯楽の一つだったんだろうな~

ただ基本的に主従関係の延長線上での少年愛の形態だが必ずしもそればかりではなく主君の立場の人間がネコになるばあいもある?・・・らしい。
そういう意味では純粋な愛の形態もありえたということなのか?

性の多様性の開花-陰間
江戸時代にはさらに町人文化にまで浸透してここにニッポンの文化成熟度を測る風俗形態として様々なものが出てくる。
芝居小屋で歌舞伎などの大衆演劇が興じられ豊な文化を育んでいる時代、まだ幼い13,4から20歳までの舞台に立たない少年を陰の間とよび売色を専業とした者も多かったようです。

背景として存在する歌舞伎という大衆演劇。
今でこそ女人は立ち入るべからずですが発祥当時は女歌舞妓が認知されていて漢字もを当てていたようです。
女歌舞伎の演者は売春を兼業していて、風紀を乱すなどを理由に江戸時代に入り規制されます。
何時の世も性風俗産業の知恵?は暇が無く今度は元服前の前髪(月代)を剃り落としていない少年による若衆歌舞伎が人気を博すようになります。
当然、意図することは売春という流れですが現代であれば当然ロリコン。
で、児童虐待ですね。時代が変わればですね。客観論ではどうなんだろう?
獣姦はさすがに普遍的なタブーという感じはしますが・・・
南アフリカローカル部族では未だに性のイニシエーション的な事が行われているとかいないとか・・・

陰間茶屋
この頃に、陰間茶屋と呼ばれる舞台とは別で舞台に立たない陰間を接待させるお茶屋、まさにセクキャバが存在していたようです。しかも男娼専門ですが女のお客も引いていたというからコリャー現代にも勝る勢いだったんでしょうね~。20歳までは男中心に相手してそれを過ぎると女性に鞍替えで客引きする。そんな感じだったようだ。

しかしまたもや御上は次の手を。
若衆歌舞伎も幕府から規制がかかります。
町人は懇願します。‘美少年とやらせろ~~’‘権利だ権利!’
で・・・条件付で受諾したようで、役者は月代を剃り男らしくし、旧来の舞いや音楽中心の舞台から演劇主体の舞台への注文を付けた。恐らくこの辺りから現代で言う大衆演劇と歌舞伎の分かれ道になった気もする。
それ以降の野郎歌舞伎と呼ばれる形でも女形は春を運んで酒席ではもてなしたようです。
男に抱かれて初めて芸が立つ。そんなところなのだろうか?

性の王道
江戸時代の性の形態は極めて奔放な側面も垣間見えるという事が感じられる。そんな歴史の一片ですね。
しかも、この頃陰間を愉しむというのは粋の世界観としても捉えられていたようだ。
要するにただの男色ではない。女も男も抱くという両刀使いが基本スタイルで王道だったそうなw

画樂侘紀行NewUpdate

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