私にもある。
自身の主観が多角的という何処から来るか分からない自信があるからだ。
主観を妄信するのはともかく主観のフィルターを通して他者をジャッジするのは、もーなんだかなー
世代間ギャップなどから起こる価値観の軋轢。
他人との関わりはとかく面倒なものだ。
と、感じるのも自信の価値観を他人に押し通したいがために面倒に感じるもんなんだろう。
他人を蔑み自身の価値観でジャッジする卑しい言動だけは妄信の是非とは別のところで自戒する心持ちたいもんだ。
慶弔事で風に乗って流れてくる他者のコトバの匂いでそんな事を感じました。
まだまだと感じる心もまだまだ...なんか野球選手の昔のCMみたいな語呂だな
無味無臭なコトバに味と臭いが増幅する。祝いの言葉はその人の為に使うように心がけたい。
2009年10月3日土曜日
主観を通して他者を決め付けてかかる。
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