-->

2008年4月24日木曜日

光市母子殺害の裁判

被害者遺族の男性。
会見で垣間見える知識レベルが傷の深さの表れなのだろう。
武装しないと主張に光があたらなかったのだろう。

善意の傍観者に罪は無いのだろうか?

死刑という判決を受けての男性の会見での一節。

決して喜ばしいことではないと思っています。厳粛な気持ちでこの裁判所の判決を受け止めています。遺族としては当然、応報感情を満たされたわけですから、報われる思いはありますが、社会にとってみれば、私の妻と娘、そして被告人の3人の命が奪われる結果となったわけです。これは社会にとって不利益なことです。

 私はこの事件にあってからいろいろ考えておりますけれど、やはり刑法っていうものは社会秩序を維持するための目的を達するための手段だと思っています。死刑という大変重い判断が下されましたが、これで終わるのではなくて、私たち遺族もこの重い判決を受けて真っ当に生きていかなければいけないと思いますし、社会のみなさまにも、どうすれば犯罪の被害者も加害者も生まない社会を作るのか、どうすればこういう死刑という残虐な、残酷な判決を下さない社会ができるのかを考える契機にならなければ、私の妻と娘も、そして被告人も犬死だと思っています。死刑の存廃等の問題が騒がれるようになるかもしれませんけど、刑罰はどうすれば私たちが安全な環境を作れるかということを考える契機にならなくてはいけないと思いますので、そういった方に社会が向いていくことを望みます。

4 件のコメント:

  1. この事件の犯人には死刑しかないと思う
    他に償う方法は無いでしょ。

    返信削除
  2. 刑罰。やっぱり死刑は罰の比率が高いでしょうね。
    償い。
    罰を科されて償いに昇華するのか・
    自害であればそれはそれで償いとして機能しそうです。

    返信削除
  3. 死ぬより生きてる事の方が辛いって場合もありますからね
    どっちがいいんでしょうね・・

    返信削除
  4. 償いとはある意味、償いをさせて頂ける機会を与えられ、其処からの救いへの昇華をたどる道程を得るということだと思います。
    償いの機会を削がれ、罰のみ科されるという事のほうがやっぱり厳しい刑ではありそうですね。
    う~ん複雑だ。

    返信削除